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今回の講演の目的

1 日韓交流会の一員として会員としての来歴を紹介する。

2 個人レベルでの一つひとつの温かい思い出が盤石な世界平和の基礎であると訴えたい。

3 思い出の人々にもしもう一度会えるのであればこの機会を通してお会いしたい。蔡先生。梨花女子大の留学生。そして、SAM。おまけで、チェジウ。

 

韓国と私の略歴

1983年1月25日~27日   初ソウル訪問

1983年春                          韓国語学習開始 サンシャイン池袋韓国文化院にて

1983年9月1日                KAL007便撃墜事件そして蔡先生

1985年                              梨花女子大留学生との出会い

1986年9月                       SAMとMIKEとルームシェア

2005年                              冬ソナを知る

                (2003年〜2004年に日本でテレビ放送)

2006年3月                       23年ぶりの韓国

2016年頃                          日韓交流会との出会い

 

講演の詳細は以下です。講演と言っても当然アカデミックなものではありません。体験談を述べ、皆さんにもご自身の経験を思い起こしていただく機会にしていただければと思っています。また、現在当時の写真を倉庫の中をかき回して捜索中です。出てきましたらそれをパワーポイントで表示するつもりです。蔡洙明君の詩集のみ発見しました。36年前のものです。講演時間は発見できる写真の数と内容にもよりますが、50分くらいから70分くらいになると思います。尚、資料はUSBメモリーで持っていき、先生のいつも使っていらっしゃるプロジェクターで投影するつもりです。宜しくお願いします。

 

1968年                              小学校5年生頃。新岩君という友達ができる。牛の舌を食べるということで少年たちの間で大いに話が盛り上がった。

1973年                              Fさんは気立ての優しい物静かなクラスメートであった。その子が高校に通学するときに電車の駅で出会いチマチョゴリの制服を着ていた。

1983年1月25日~27日   初ソウル訪問

1982年にアメリカ放浪の旅を終え、帰国の途中、たまたま、大韓航空に乗っていたので、ソウルに立ち寄ったのが私の韓国とのお付き合いの始まりだった。それまで、こんなに近い国でありながら、韓国については無知であったが、来てみると何となく自分の幼少の頃の街の中にいるような気になった。交わす言葉も、昨日まで聞いていた英語とは全く違い、どちらかといえばやはり日本語に近いといえば近くきこえても来る。文字は記号のようで、全くわからなかったが、看板のつけ方などは日本によく似ていてそこにある文字だけが違っていた。お店の人たちも大変優しく、全く言葉の話せない私にも一生懸命対応してくれ、焼き肉を提供してくれたのを覚えている。

韓国で体験してみたかったのがオンドルであった。これも何とか場所を見つけて泊まることができた。

いろいろ驚いたことがあったが、一つは、タクシー。当時はタクシーの数が少なかったのか、乗車して走っていると、突然停車し、全く知らない人を助手席に乗せ走り出した。いったいこれは何なんだと思った。もしかして、運ちゃんの友達がたまたま路上にいて無賃乗車してきたのかと思ったけれどもそうではなく、当時は当たり前のことであった。こうしてタクシーの少なさを解消するという事だった。

また、自転車やオートバイに積む荷物の量が半端ない。日本なら優に2トン車に積むべき様な量のものをそれらに積んでいる。すごいなあと感じた。

朝鮮戦争の傷跡なのだろうか、路上を足のない人たちが手製のスケートボードのようなものに乗って物乞いをしている。

路上で様々なものを売っている。例えば、ナマコの鉄板焼きはびっくりした。さすがに手が出なかった。

その他、その日は異常に寒く、零下15度くらいあったと思う。だから、昼間の数時間しか屋外に出ることができなかった。

1983年春                          韓国語学習開始 サンシャイン池袋韓国文化院にて

韓国との衝撃的な出会いをして、韓国語を学ぼうと決意した。

私は、1979年5月10日 開院(東京 池袋 サンシャインシティ・サンシャイン60ビル)した、韓国文化院で、韓国語教室を受講した。当時の担当先生は、50代半ばの蔡勝錫先生だった。東京経済大学で教鞭をとられていた。愛息がいらっしゃり、横浜のインターナショナルスルールに通う予定であったそうだ。先生の授業は、無駄なく、正確で、ハングルを最初のクラスの30分で皆覚えることができてびっくりしていた。本当に素晴らしい先生であった。

 

1983年9月1日                KAL007便撃墜事件そして蔡勝錫先生

この上ない、悲しい事件が発生した。この便は、私が8か月前ソウルにアンカレッジから帰ってくる飛行機で、もしその便に乗っていれば私もこの世の人間ではなかった。その日だったか、どうだったか分からないが、夜いつもの韓国語のクラスを受けるためにサンシャイン60の教室に行くと、先生がいらっしゃらなかった。他の生徒さんに状況を聞くと、蔡先生の息子さん蔡洙明君(12)がKAL007に乗っていたそうだった。あまりにも信じられないことで言葉が出なかった。翌週、クラスに一応行ってみると、蔡先生がいらっしゃった。先生は嗚咽しながらも気丈に振舞わられ息子さんの書いた「いのちときぼう」という詩を皆さんに渡していた。息子さんの聡明さは一目でわかった。なんで世の中にはこんな悲しいことがあるのかと本当にいたたまれなくなった。私は蔡先生の悲しい顔をもう見ることができなくなり、その日を限り教室から足が遠のいてしまった。私は、今回の講演の為、古い私信の箱を開け何百という手紙の中からふっと36年前先生から頂いた緑の画用紙の細君の詩集を偶然にも見つけ出した。蔡君のお父さんの声を通して聞こえてきた言葉が私を呼んだような気がしてならない。

参考

  • 蔡勝錫先生

  • ソウル大学法学部卒業。東京大学大学院法学政治学研究科修士課程修了、博士課程単位取得。のち学位取得、法学博士。

  • 1988年、東京経済大学経済学部助教授を経て、1992年、教授。2000年4月、現代法学部教授。
    2007年3月、定年退職。
    国際労働財団(J I L A F)評議員。
    研究分野は、閉鎖会社、韓国の労働関係法。
    著書に、『韓国の消費者保護法』(商事法務研究会、1998年)などがある。
    (資料:『現代法学部』,p3:『TOKYO KEIZAI UNIVERSITY 1999 大学案内』,p7

1985年                              梨花女子大留学生との出会い

ニューヨーク州立大学バッファロー校に付属するIELIという英語集中教育機関というところでこの9月が勉強を始めた。宿舎はレッドジャケットという1000人程入る事のできる外国人向けの学生寮であった。入寮して1,2週間たった頃だろうか、私は今とは違い痩せてまだ見栄えがしていた頃であったようで、韓国の女性から食事の誘いがあった。彼女にはやや年上のお姉さん方が二人ほどボディガードのようにしていらっしゃりその方から口利きがあった。若い私は了解し学生寮の台所でプルコギを皆で一緒に食べたと思う。本当に清楚で美しい方で梨花女子大の学生で語学留学しているそうだった。梨花女子大は韓国でも有名な女子大であることを私は知らずにいた。数日後私に韓国語の勉強を始めないかと語形変化表を手書きで持ってきた。語学の好きな私は是非やりましょうと二つ返事で了解した。その後、ピクニックに一緒に行ったり、学校のプールに行ったりして、所謂お付き合いが始まったのかと思っていた矢先、急に連絡が途絶えてしまった。同じ寮にいながらあってもらえなくなってしまった。お互い英語はままならないし、日本語も韓国語も同様であった。そそして、原因不明のまま一か月ほどのはかない恋は終わった。

1986年夏                          韓国人学生アパートをサブレット

1986年5月までは、学生寮にいたが、学生寮というのは日本の感覚と違い、逆に高い。学外のアパートの2倍から3倍する。しかもプライバシーは全くない。だから、アメリカ生活に慣れると普通は外国人留学生もアパート生活を始める。私も、突然、見知らぬ韓国人学生から声を掛けられ、近くのトライポッドというアパートをサブレットしないかと誘われた。夏休み中のアパートの又貸しだ。こちらでは違法ではなく、「学生間でよく行われる。バッファローの学生の多くはニューヨーク出身なので、夏や冬休みはニューヨークに替える。その間、留学生にまた貸しする場合が多い。車を持っている日本人で、ある程度信頼されていたのだろう、どうして情報が回ったのかわからないが又貸しの話が舞い込み大変好条件で借りることができた。

1986年9月                       SAMとJAMESとルームシェア

その全く知らない韓国人の友人のSAM(このSAMをも当時は全く知らないが)からまた8月の終わりころ突然話があって、一緒に三人で他のアパートをシェアしないかという事になった。私には最も大きな部屋を用意するという事だった。実はそのアパートは2DKでSAMともう一人JAMESがいるため、SAMに君はどこに寝るのか聞くと、リビングをカーテンで仕切ってそこで生活するから大丈夫だという事だった。何か申し訳なかったが、ご本人がそうおっしゃるので了解した。9月から新しいアパートで生活が始まった。生活始めるとすぐになぜ私が呼ばれたのか分かった。SAMとJAMESがどうもそりがあわないようだ。もちろん当初はそうではなかったのだろうが、二人の生い立ちからそのようになったらしい。SAMは、中学卒業後アメリカに両親と一緒にわたってきたそうだ。JAMESはアメリカ生まれそうだ。だからどうしてもいろいろこまごましたところで二人の考え方が相違が発生してしまったようだ。SAMがいつも言っていたのは、「あいつには、ウリの精神がない。それが無くなれば韓国人じゃない。」同じルーツを持ちながら、育った環境で根本的な部分で合わなくなったんだろう。

2005年                              冬ソナを知る(2003年〜2004年に日本でテレビ放送)

2001年市議会議員初当選、2005年4月市長選立候補し落選

「誠心誠意」を訴え、市議に初当選し、四年間の間も、政治的な駆け引きを排除し、「誠心誠意」で市政の問題や市民に対峙してきたけれども、一向に反応がないと感じ、それば、市議という立場の弱さからだと感じて、政治の世界に入ってたって四年で、市長選に挑戦。当然ながら落選してしまいました。しかし、本人は、政治の付和雷同、毀誉褒貶、魑魅魍魎等、「純真」からはかけ離れた世界に辟易し、「冬ソナに」出会ってそこにある「純真」にのめりこんでいきました。DVDを購入し1年間に全編を4,5回鑑賞し、睡眠不足になりました。この韓国ドラマのお蔭で、選挙後人間不信に陥っていた自分がどれだけ救われたかわからない。もう一度、純真という人間の持つ素晴らしい本性の一つを確認することができ、再出発しようという気力がわいてきた。チェジウさん、カムサハムニダ。

2006年3月                       23年ぶりの韓国

2005年6月6日にいっせい塾を設立し、この塾がことのほか成功し何とか生活基盤を立て直すことができ、二年が経った頃、家内の許可が出て海外に行く機会をもらった。行先はやはり、冬のソウルだった。どうしても中央高校の正門や、その前のヨン様がもたれかかって煙草を吸ったあの石垣の場所に行ってみたかった。そして、その場所が本当にあった。感激した。しかも、土産物屋のおばちゃんのセールスのきついこと。びっくり。

宿泊先は、ハプチョンのキムズゲストハウスで当時はまだソウルにもゲストハウスがそれほどなかった中で、ソウル最初のゲストハウスと聞く。おばちゃんが日本語と英語を少し話し、5日間くらい滞在した。ここは、孤児院の近くにあり、孤児院を出て成人した人たちが再びその孤児院を訪問するのに利用することが多いゲストハウスだそうだ。沐浴湯もハプチョンとゲストハウスのちょうど中間にあり、便利であった。韓国の沐浴湯は、朝早い。4時頃からやっている。入り口には靴磨きがあったり、垢すりがあったり、床屋が有ったり、もちろん爪切りや綿棒も置いてある。本当に便利だ。

ゲストハウス滞在中は、滞在客の皆さんに日本のカレーをふるまったら大好評。夜には、皆で散歩に行こうと漢江を橋で渡り、ちょうど中間にある浄水場に降りて一回りして帰ってきた。真夜中にも関わらずかなり人出があってしかも安全であったのには驚いた。大変いいおもおいでを作らせていただいた。

2008年頃                          トトロハウス語学院との出会い

日本に興味のある韓国の若者とのインフォーマルな出会いの場を求めていると、ソウルにトトロハウスという日韓交流会があると知り、ソウルに行くたびにというか、これが目的でソウルに行くようになった。この語学院は当初新村駅のすぐの古いビルの最上階にあり入口で1万ウォン程度払うとワンドリンクとその後の交流会参加券がもらえる。交流会は毎回7.80人集まり、10人程度に分かれてそれぞれ個室で韓国人7割日本人3割程度で雑談をする。当時は毎週金曜日の夜に行われていたと思う。現在は、学生街の弘大に場所を移し、毎週土曜日の夜に開催している。この交流会で、自己紹介から始まり様々なテーマについて雑談をした。話によっては難しいことになりかねないけれども、今まで一度も気分の悪くなるようなことはなかった。お互い節度をもって楽しく意義のある懇談会を維持している。そのあとは近くの居酒屋で酒を酌み交わすがこれもまた一興で、何物にも代えがたい良い思い出になる。こんなに仲の良い我々の関係が永続することを望む。

2014年                       日韓交流会との出会い

平成26年に犬山市が大韓民国慶尚南道ハマン郡と姉妹都市提携した。当初は、犬山市長の恣意的な施策であると、つまりいい加減な人気取りの税金の無駄遣いであると議会から批判されましたが、交流を始めてみると、もしかすると、古墳時代より、ハマン郡のあたり、つまり伽耶国と犬山辺りは交流があったかもしれないという形跡も、最近感じられることがあったわけです。それは、ハマン郡は古墳が何百とあり、それで世界遺産登録をしようとするくらい古墳で有名な街ですが、犬山市も古墳が多く、その一つが青塚古墳という前方後円墳の古墳です。その古墳の横にある資料館にその古墳から出土した土器があり、その土器が伽耶でしか作られていない土器であると、平成31年春の犬山祭にお越しいただいたハマン郡の市議の皆さんがその資料館を訪ね私にそのことを伝えたのです。私もその後資料館を訪ね、確認しました。土器の縦の切れ目は、ハマン郡の古墳博物館で見たその土器によく似たものでした。なるほどと思ったものです。たまたま、姉妹都市になった両市ですが、意外に縁の深い二都市であったのかもしれません。私が専務理事を務める犬山市襄陽市友好協会も、ハマン郡と姉妹都市になることを契機に、犬山アジア友好協会と改め内容も、対象を中国のみならず犬山の住民の皆さんとアジアの国々の架け橋を目的とする活動とすると改めました。そして、その最初の講演会に河野先生をお招きしたのが最初の出会いであったと思います。今でも、名古屋駅のドトールで受けた、河野先生のマシンガントークは忘れることができません。これからも私と韓国のお付き合いは続いていきます。