プロフィール

昭和40年 杉の子幼稚園卒園

昭和46年 犬山南小学校卒業

              昭和45年4月児童会長に立候補当選

昭和49年 犬山中学校卒業

              昭和47年4月生徒副会長に立候補当選

              昭和48年4月生徒会長に立候補当選

昭和52年 愛知県立明和高校卒業

              昭和50年5月生徒会長に立候補当選

昭和52年-54年河合塾で二浪

昭和54年 明治大学法学部法律学科入学

              入学とともに誘われるがままに明治大学体育会アメリカンプットボール部に入部

夏の草津合宿を何とか乗り越え秋季戦を終えるがあまりに激越な練習に完全に燃え尽き退部。練習は朝11時から夜7時までだったので学校も一切行っておらず、クラスメイトは一人もいなかった。そして大学での自身の存在理由が見いだせなくなる。

昭和54年12月-60年6月 

     ホテルオークラ東京でアルバイト

アメフト退部とともに、大学のアルバイト募集の張り紙の時給810円に目が留まりホテルオークラを知ることになる。犬山出身者では当時ホテルオークラなど知るものはほとんどいなかった。虎の門に偵察に行くと見たこともないような高級感のあるホテルで時給も当時マクドナルドが500円くらいだったからすぐにオークラの地下にある東京配膳事務所に面接に行った。即採用。不思議なことにその頃時を同じくして同年の学生がたくさんアルバイトで採用され本当に楽しい仲間ができた。大学ではあまり友達はできなかったが、オークラで初めて東京の友人ができた。それとともにほとんど無一文の生活から十日ごとに7,8万から時には十万を超える金が入るようになり、学生としては贅沢な生活を送るようになった。  

昭和57年秋 アメリカ武者修行

 学校も行かずアルバイトをして刹那的に日々を楽しく暮らすという生活が二年ほど続いた。そのうち同級生たちは既に卒業単位を取得し企業から内定をもらい始めているようなことを耳に挟むようになった。三年修了時ほとんどの学生は120~130単位取っていたが、私は、たったの38単位であった。到底卒業は見込めない。それで、四年生になった時、アメリカに逃げようと思い立ち、アルバイトで稼いだ金を使わず貯めた。50万円たまった。半分で大韓航空のニューヨーク往復チケット一年オープンというのを買った。帰りはLA発だった。中身は別の機会にするとして、私にとって、とんでもないインパクトを与えた武者修行であきらめていた人生をもう一度やり直す転機となった。

昭和60年3月 明治大学法学部法律学科卒業

 残りの90単位を二年間で取得し、二年間留学するための費用550万円をアルバイトでため込ん大学を卒業した。早稲田の家賃1万円の三畳間に移り住んで交通費と食事はオークラからでたので、一日自分の使える金は100円と決めて後はすべて貯めた。

昭和60年7月21日 横浜港から船で離日

ソビエトのナホトカを経由し、フィンランド、ノルウェー、スウェーデン、デンマーク、ベルギー、オランダ、ドイツ、スイス、イタリア、フランス、スペインと廻りオランダのスキポール空港からニューヨークのJFKへ再び飛行機で飛んだ。ニューヨークでは、前回訪問した時に色々お世話になった恩人にご挨拶に伺いそこからバッファローにまた飛行機で一時間乗ってたどり着いた。

昭和60年9月-61年6月

     ニューヨーク州立大学 バッファロー校付属語学学校入校

 SUNYのUBと通常アメリカでは呼ばれているが、なぜここを選んだかといえば二つの理由があって、一つは学費が安いということ、もう一つはここの英語教育はアメリカでも有名であることであった。実際その両方とも期待にそうものだった。私はここでも人生の英語の師であるダネット先生に出会うことになる。

昭和61年夏 ニューヨーク州立大学バッファロー校教育学修士課程入学

 アメリカで生きた英語を身に着けたいとは決意していたが、具体的にはどういった学位があってどのようなルートで取得していくのは現地に行ってから知ったという状況であった。TESOLという新しい学問分野があってこれを学べとダネット先生から支持されそれに従った。もともとアカデミックな頭のない私には大変だったが何とか修了することができた。

 それとともに、学友と縁があり結婚することになった。

平成元年6月 同校 修士課程修了

昭和62年-平成2年 

アメリカでの職歴

ペンキ屋              ジェリー スタンダード親方の下で毎夏3か月ほどづつ木造家屋の外壁塗りを手伝った。時給6.5ドル。朝6時から午後6時ころまで。ほとんどの仕事は、ペインターズナイフで古いペンキを剥ぎ取りそのあとサンドペーパーで削る作業。それが、95%。後5%が下塗りと上塗り。終わると疲れ切って体は動かなくなり家に帰ったとたん床にぶっ倒れていた。人生で最もきつい仕事だったがやりがいも楽しさもあった。 

 

すし屋                  リチャード トンプソン親方の下で3年ほどやった。当時バッファローでグリーンカードを持った日本人はほとんどおらずすぐにパートナーとして採用された。リチャードはイギリス人と日本人のハーフのアメリカ人。たいへんセンスの良い親方で様々な種類の巻物を提供していた。また、アメリカの寿司屋はしゃべりができないとお客がつかない。彼はジョークの天才で寿司バーは寄席のようであった。私もそこで結構英語を習得した。

成人学校

信じられないが日本人の私が現地民に英語を教えた。成人学校は、高校卒業資格を持たないものならだれでも通うことができ、そこで学んで高卒資格試験を受けるわけだ。私はその学校の黒人校長に気に入られそこで働くことになった。あとで採用理由を聞くと有色人種で移民が頑張る姿を見せることも教育だということだったそうだ。

 

通訳者

 バッファローにも時々日本の企業の視察がある。かつてはこの辺りは重工業地帯で巨大な製鉄所があったし、自動車関連のプレス工場も現在もある。また、近くにナイアガラの滝があるのでニューヨークへビジネスで訪れたついでによることもあったろう。それで、通訳仕事が時々舞い込んできた。自分にもっと商才があればかなりのビジネスになったろうにと今になれば思う。

この後、バッファロー市教育委員会から正教員としての採用の方針が決まりそうだと連絡があった。

平成2年7月一時帰国が帰国となる

弟の結婚式に出席するために一時帰国することにした。結婚式後、家内がこのまま日本に住み着きたいと主張。アメリカの生活を捨て日本に帰国することを決意した。

平成2年7月

各務原蘇原のガソリンスタンドで1か月だけアルバイト

平成2年8月-平成8年3月 

              ECCに契約社員として就職

ECC講師養成、外国人採用担当、ECC専修学校講師

平成8年4月-平成11年3月 犬山市国際課職員

              犬山国際観光センターフロイデの専門員として採用される。貴重な3年間であった。役所という組織の構造というものはどうであるのかというのが大変よく分かったような気がした。 

平成11年5月-平成15年 

      犬山市議会議員初当選

         (1141票 25人中19位)

平成15年4月 犬山市長選落選

平成15年6月-現在 英会話塾経営

 捨てる神あれば拾う神ありの通りであった。失意のどん底から、これしかないと塾を立ち上げるとありがたいことに大変多くの生徒さんに来ていただいた。本当にありがたかった。一生懸命恩返しと思ってご教授させて頂いた。

平成19年4月22日 犬山市議二期目当選

        (944票 22人中17位)

平成23年4月24日 犬山市議三期目当選

                              (910票 20人中19位)

平成23年5月11日 副議長就任

平成27年4月26日(1153票 20人中16位)

平成30年5月10日 副議長就任

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